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英祖(ヨンジョ、えいそ、康熙33年9月13日(1694年10月31日) - 乾隆41年3月5日(1776年4月22日))は李氏朝鮮時代の21代国王(在位:1724年8月30日 - 1776年3月5日)。諱は(クム)。字は光叔(こうしゅく、クァンスク、)。諡号は荘順〔清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち 朝鮮日報 2007/09/16〕至行純徳英謨毅烈章義弘倫光仁敦禧体天建極聖功神化大成広運開泰基永堯明舜哲乾健坤寧配命垂統景暦洪休中和隆道粛荘彰勲正文宣武熙敬顕孝大王。即位前は延君(ヨニングン)と称し、粛宗の次男にあたる。母は和敬淑嬪崔氏。朝鮮王朝の歴代君主中最も長生きした君主であり、在位期間もおよそ52年間と最も長かった。 == 生涯 == 粛宗の次男として生まれ、1699年に延君に冊立された。生母・淑嬪崔氏は王の井戸で水を汲むムスリ出身だった。当時ムスリは宮廷の下人の中でもその地位が一番低く、よく「宮女の下人」と呼ばれていた。生母が賎しい身分のため、延君は同じ王子ながらも世子である異母兄・李(景宗)とは全く違う周りの慇懃な蔑視を受けながら育った。 王世子は14歳の時に母禧嬪張氏が賜薬を受けて殺されたのを見た後、病気となり、粛宗からも冷遇されていた。王世子に子がなかったこともあり、粛宗は景宗の跡を延君に継がせるよう左議政李頤命に命じた。これにより王世子を支持する少論と延君を支持する老論の間の権力争いが激しくなった。1720年に王世子が即位した後、延君を王世弟に冊立しようという建議が出されたが、延君は王世弟位を繰り返し辞退した。結局1721年に王世弟に冊立され、1724年8月に病弱だった景宗が薨去するとそのまま王位を継ぐこととなった。 熾烈な党争の中で生命の脅威まで感じていた英祖は、登極するや少論を追い出して老論を登用したものの、徐々にでもって老論と少論の均衡政局を作ろうと努力するようになった。しかし即位から4年後の1728年、景宗の死で政治的基盤を脅かされた、李有翼()らが昭顕世子の曽孫を国王に推戴して武力で英祖と老論を追い出そうと謀る事件が起こる。この(戊申政変)がきっかけとなり、英祖は再び政治的に立場の近い老論を重用した。英祖は蕩平策の一つの方法として「双挙互対」を実施した。これは主要な地位ごとに老論と少論の人物を一緒に登用し、お互いを牽制させることで政権を独占できないようにするという政策である。また、1772年には同じ党派に属する家同士の婚姻を禁止した。さらに、死刑は必ず3審を経て執行することとする三覆制度を復活させ、士大夫が私的に刑罰を下す行為を禁止した。 しかし、このような状況は結局、1762年の王世子(荘献世子)の死を招くこととなった。英祖の健康悪化のため、荘献世子は1749年から代理聴政をとるようになったが、世子と英祖を離間させようとする老論と貞純王后の画策もあり、2人は対立した。遂に1762年、英祖は荘献世子を廃世子するとともに自決を命じ、世子は米櫃に閉じこめられ餓死した(壬午士禍)。のちにこれを悔やんだ英祖は世子に「思悼」と追号するとともに荘献世子の息子(のちの正祖)を王世孫に冊立し、また後にはこのことを教訓として正祖に代理聴政を行わせ、老論に牽制されることを前もって防止した。 英祖は一方、民が兵役の代わりに税金として納める布帛を2疋から1疋に減らす均役法を実施して国民の税負担を大きく減らし、国家に対する義務を身分に応じた負担とした。また朝鮮通信使として日本へ行った (en) が持ち帰ったサツマイモを、凶年の際には主食の代用とできるようにした。 学問を好んだ英祖は自ら書籍を執筆するだけでなく、印刷術を改良して多くの書籍を刊行・頒布させ、民衆の書籍に接する機会を広げた。『退陶言行録』、『女四書』、『小学訓義』、『続五礼儀』、『続大典』、『無寃録』、『続兵将図説』、『漏籌通義』、『海東楽章』、『輿地図書』、『東国文献備考』など数多くの書籍を編纂した他、『御製警世問答』、『為将必覧』は英祖の著書である。英祖のこのような実際的政策の影響で、朝鮮はを先駆けとして実学が育ち始め、正祖の代には「朝鮮のルネサンス」と呼ばれるほど大きく成長することとなる。 1776年、老衰のため83歳で薨去した。李氏朝鮮の歴代国王の中で最長の在位期間(52年)であった〔次いで第19代国王・粛宗の在位46年、第26代国王・高宗の44年(大韓帝国皇帝時代を含む)、第14代国王・宣祖の在位41年、第11代国王・中宗の在位38年の順となる。〕。御陵は元陵である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「英祖 (朝鮮王)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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